「この家、何かいる?!」―私が空き家に入るとき、必ず挨拶する理由

「霊感が強いわけじゃないんだが……」

Oさんは、そこで一度言葉を切りました。

「あれ?そこに誰かいるんじゃないか?と、肌で感じることがあるんだ」

思わぬ話題の転換に、私はメモの手を一旦止めました。

ここは、賃貸アパートの仲介をお任せいただいている、Oさん宅です。

いつものようにアパート経営の話をしていて、いつの間にか空き家の話へ。

するとOさんが、少し考えるような顔をして、そんなことを話し始めたのです。

「別に何かが見えるわけじゃないんだよ。幽霊を見たとか、そういう話じゃない。でも、家とか、出先の建物とか、道端なんかでも……たまにね、あぁ、ここ何かいるなぁってね」

怖がっているわけでも、冗談を言っているわけでもありません。

Oさんにとっては、ただ「そう感じることがある」というだけの話でした。

「この和室、何かいるなぁ」

Oさんは、私がYouTubeにアップしている空き家の動画も見てくれています。

そこで、こんなことも言われました。

「笠井さんの動画見ててもさ。この和室、隅っこに何かいるなぁって思ったのもあるんだよ」

「え、この1階の和室ですか?」

「そう。画面からでも感じるんだ」

私は少し笑いました。

空き家の動画を撮影しているとき、私自身はカメラを回すことに集中してしまっています。

だから、そこに「何かいる」と感じる余裕がないのかもしれません。

でも、Oさんの感覚を否定する気にもなりませんでした。

人によって、同じ場所から受け取るものは違います。

  • 見える人には見える。
  • 見えない人には見えない。
  • そして、見えなくても「何かを感じる」ということもある。

私は、そういうものなのだろうと思っています。

さらにOさんが言いました。

「笠井さん、よく空き家に行くしさぁ。前は自殺物件にも出入りしてたよな?よく平気だね?」

「うーん……」

私は少し考えました。

怖くないわけではありません

正直に言えば、怖くないわけではありません。

  • 夜の誰もいない家。
  • 電気のついていない廊下。
  • 家具だけが残された部屋。
  • 誰もいないはずなのに、生活の気配だけが残っている台所。
  • 時計は止まり、カレンダーは何年も前のまま。

そんな家に一人で入れば、普段なら気にならない物音にも、少し敏感になります。

古い家なら、風で建具が鳴ることもあります。

床が軋むこともあります。

屋根裏から何かが走る音がすることもあります。

ですから、「私はまったく怖くありません」とは言えません。

ただ、少し慣れたのだと思います。

そして、私には空き家に入るときの、ちょっとした習慣があります。

玄関を開けたら、まず挨拶するのです。

「こんにちは!」

そして、

「○○さん、これからこの家をキレイにするからね。大事に使うから、よろしく」と。

その家で長く暮らしてきた人がいたのなら、最初くらい挨拶してもいいじゃないか。

そんな気持ちです。

仏壇のある家では、そっと手を合わせます。

玄関で亡くなった家人に…

以前、上田市で管理していた物件がありました。

その家では、家人が玄関で倒れて亡くなっていました。

当然、そのことを知ったうえで私は何度もその家に入りました。

そして掃除をするとき、玄関を入るたびに、

「Sさん、来たよ!」

「今日もよろしくね」

「しっかり片づけるからね」

と声を掛けました。

誰かに聞かせるためではありません。

自分自身に言い聞かせるようなところもあったと思います。

この家には、確かに誰かがいた。

ここから出かけて、ここへ帰ってきて。

靴を脱いで。

家族と暮らして。

笑ったり、怒ったり。

そして最後は、この玄関で人生を終えた。

そう考えると、ただの「物件」として見ることができなくなります。

そこには、その人の人生の時間が積み重なっています。

だから私は、掃除をしながら話しかけていました。

「ここもキレイになってきたよ」

「もう少しで終わるからね」

それで何かが起きたわけではありません。

でも、不思議と落ち着くのです。

「また来週ね」と言ったら鍵が…

もう一つ、忘れられないことがあります。

長野市のある空き家です。

その日もいつものように作業をして、そろそろ帰ろうと思いました。

玄関まで行き、引戸を閉めます。

そして何気なく、

「Kさん、また来週ね」

そう言って帰ろうとしました。

ところがです。

玄関の鍵が、うまく締まりません。

「あれ?」

今まで何度も開け閉めしてきた鍵です。

特に引っ掛かることもなく、スムーズに使えていました。

ところが、その日に限って妙にかかりにくい。

少し戻して。

また差し直して。

ゆっくり回して。

それでも、なかなかうまくいきません。

私は玄関の前でしばらく鍵と格闘していました。

もちろん、古い鍵です。

たまたま具合が悪かっただけでしょう。

建物というものは、そういうことがあります。

気温や湿度、建具のわずかな歪みでも、鍵は動きにくくなります。

だから、科学的に考えれば、それだけのことです。

それでも、そのとき私は、

「……Kさん、まだ帰るなってこと?」

と、少し笑ってしまいました。

そして、

「はいはい。じゃあ、もうちょっといますよ」

と、もう少しだけ家の中に戻りました。

しばらくしてから、もう一度玄関へ。

今度は、すっと鍵が締まりました。

「じゃあ、また来週ね」

私はそう言って、家を出ました。

何だったのかは分かりません。

もちろん、鍵のせいです。たぶん…

空き家は「箱」ではありません

こういう話をすると、すぐに「幽霊がいるのか?」という話になってしまいます。

でも、私が伝えたいのは、そこではありません。

本当に何かがいるのか。

それは私には分かりません。

Oさんにも分からないでしょう。

見える人もいるかもしれないし、何も感じない人もいる。

私は、そのどちらも否定しません。

ただ一つ、確かなことがあります。

空き家には、そこに暮らしていた人たちの時間が残っています。

  • 家族で食卓を囲んだ時間。
  • 子どもが走り回った時間。
  • 夫婦がケンカした時間。
  • 誰かが病気になった時間。
  • 誰かが亡くなった時間。
  • 誰かが最後に玄関の扉を閉めた時間。

それらを全部ひっくるめて、その家は「空き家」になっています。

だから私は、空き家を単なる「箱」だとは思えないのです。

土地と建物があって、床面積が何㎡で、築年数が何年で、価格がいくら。

不動産の仕事では、もちろんそういう数字も大切です。

宅建士として、それを正確に調べることも私の仕事です。

でも、それだけでは見えないものもあります。

空き家レスキューとは何なのか

空き家の片づけをしていると、古い写真が出てくることがあります。

手紙が出てくることもあります。

子どもの教科書。

昔の賞状。

使い込まれた台所用品。

何十年も前の家具。

誰かにとっては、ただの「残置物」です。

でも、その一つ一つには、持ち主の人生があります。

私は、それらを片づけながら時々思うのです。

空き家に残っているのは、物だけではないのではないか、と。

人の記憶や、思い出や、気配のようなものまで、そこに置き去りになっているのではないか。

それをどう扱うのか。

捨てるのか。

残すのか。

次の人へ渡すのか。

私は「成仏させる」なんて大それたことは言えません。

ただ、そこに残っている誰かや何かを静かに送り出してあげたい。

そんなイメージがあります。

  • 掃除をする。
  • 片づける。
  • 壊れたところを直す。
  • 家に風を通す。
  • そして、次に住む人を迎える準備をする。

それは単なる不動産の再生ではなく、その家が抱えてきた時間を、次の人生へつなぐ作業なのかもしれません。

だから私は、今日も空き家の玄関を開けたら、まず挨拶します。

「こんにちは」

その家で誰かが暮らしていたのなら。

まずは「来ましたよ」と伝える。

そして帰るときには「また来ますね」と声を掛ける。

空き家は、誰かの人生が、そこに残っている家です。

だから私は、その家を怖がるより先に、敬意を持って向き合いたい。

そして、そこに残るものを一つずつ拾い上げ、できるだけ整理をして、次の誰かへ渡していきたい。

それが私にとっての「空き家レスキュー」なのです。