※この物語はフィクションです。
「ここで肉を焼きたい」
庭に出たご主人が、開口一番、そう言った。
物件内覧の開始から、まだ5分。
私は建物の説明を始める前から、かすかな手ごたえを感じていた。
案内したのは、半年ほど空き家になっている中古住宅だ。
築28年。派手さはないが、日当たりがよく、庭もある。
「テーブルはこの辺。炭のコンロは、もう少し向こうかな」
ご主人は両手を広げた。
「買う前から、そんなに焼かないで」
奥様に言われても、顔はほころんだままだった。
仕事のものは、見えないところへ
室内へ入ると、ご主人が持っていた革の鞄を床に置いた。
倒れた拍子に、薄い冊子が数冊滑り出す。
「おっと。すみません」
私が拾うと、表紙には会社名と、青空を背景にした工場の写真があった。
「お仕事の資料ですか」
「はい、うちの会社案内です。昨日、車から下ろすのを忘れてて」
奥様がため息をつく。
「この人、休みの日も仕事のものを持ち歩くんですよ」
「持ち歩いてるだけだよ。仕事はしてない」
ご主人は会社案内を一冊、リビングの出窓へ置き、その上に私の物件資料を重ねた。
鞄は、きちんと口を閉じた。
「次は、仕事のものを片づける部屋も欲しいな」
「2階に、書斎にも使える洋室がありますよ」
私は出窓から間取り図を取り上げた。
このときの私は、実に調子がよかった。
窓の向こう
2階の洋室は8畳。
机と本棚を置いても、十分に余裕がある。
「ここ、いいなあ!」
ご主人は部屋を見回し、窓を開けた。
どこかで犬が鳴いた。
ご主人が下をのぞく。
そして、片側だけ出ていたシャツの裾を、ズボンへ入れた。
「風もよく通りますよ」
私が言うと、ご主人は小さくうなずいた。
窓の外へ、もう一度目を向ける。
今度は、背筋が少し伸びた。
「窓、閉めても?」
「ええ、どうぞ」
閉まった窓に、私たち3人が映った。
ご主人だけ、来たときより服装が整っていた。
庭が、少し狭くなった
1階へ戻る途中、ご主人が聞いた。
「さっきの庭、休日はよく日が当たりますか」
曜日によって太陽の勤務形態が変わるとは聞いていない。
「季節にもよりますが、日当たりはいいですよ」
「そうですよね」
庭に戻ったご主人は、先ほどコンロを置く予定だった場所に立った。
それから二歩、家の陰へ移動した。
「ここでも焼けるかな」
「そんな隅っこで?」
奥様が首をかしげる。
ご主人は答えなかった。
購入後の暮らしが、急に慎ましくなっていた。
私は窓の施錠を確認するため、先にリビングへ戻った。
出窓では、会社案内が開いていた。換気の風で、ページがめくれたらしい。
低い境界塀の向こうでは、隣家の男性が犬と遊んでいた。
私は窓まわりの記録を撮ろうと、スマートフォンを構えた。
犬がこちらを向いた。
つられて男性も顔を上げ、にこりと笑った。
その瞬間、シャッターが切れた。
私は会釈を返し、スマートフォンをしまった。
申し込みにならなかった家
玄関で、ご主人が靴を履く。
「いい家でした」
最初の「いいなあ!」とは、少し違う言い方だった。
奥様が、車の鍵を出しながら聞いた。
「どうする?申し込む?」
「今日は、やめとこう」
「昨日まで、いい家があったら即決するって」
「大きな買い物だから」
急に正論が帰ってきた。
会社案内を鞄にしまい、夫婦は帰っていった。
その家には結局、二人からの申し込みは入らなかった。
数日後、私は物件の写真を整理した。
明るいリビング。肉を焼くには十分すぎる庭。
そして、出窓を撮った一枚。
……なるほど。
あのとき庭で狭くなったのは、使える面積ではなかった。

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